太平洋戦争で見事に廃墟となった日本列島に、新しい風が舞い込みました。それが1964年(昭和39年)の東京オリンピックです。実は東京オリンピックが決まるまでは、大変だったのです。

1954年(昭和29年)、1960年(昭和35年)のオリンピック開催地に東京は立候補をしたのですが、IOC総会でライバルのローマに投票で敗れてしまった苦い記録があります。

その後もう一度1964年(昭和39年)こそ東京にオリンピックを!と願いを込めて、再度1959年(昭和34年)に立候補し、IOC総会の投票で2位のアメリカを破って、正式に東京オリンピックが決定しました。

1964年東京オリンピック開催は、10月10日~24日まで行われました。秋だったんですね。ですから10月10日の東京オリンピックの開会式を記念して、その後「体育の日」として祝日になりました。

この開会式はテレビでも放送され、日本の戦後初の祭典として大いに盛り上がりを見せることになりました。やはり地元日本でのオリンピック開催とあって、国内は大変な人気で賑わっていました。

その中でも日本人選手の活躍は素晴らしかったです。当時のメダル獲得数は、金16個、銀5個、銅8個の合計29個です。特に目を引いたのは、女子バレーボールです。東京オリンピックで国内初の金メダルを獲得し、感動旋風を巻き起こしました。

女子バレーボールの他、日本人選手の活躍で感動したのは、男子体操の団体と個人の優勝です。

体操はテレビで見ている我々もハラハラドキドキしますが、演技を披露する選手の方がもっと緊張していたことでしょう。毎日プレッシャーとの戦いで、この世界大会でいかにいい成績を勝ち取らなければならない…それが日頃の練習の証として出るのです。

1つでも失敗すれば減点か、あるいは最悪失格にもなりかねません。特に着地は大きく得点に左右するので、演技する選手たちは慎重な面持ちで参加していたことでしょう。

特に男子体操の難しいとされる、つり輪や跳馬。あれこそ両手でやるのですから、本当に集中力・精神力が必要です。でもあれって本当に凄いですよ、いつ見ても。女子にはとても真似出来ません。

でも団体と個人とでは大きく違いますからね。団体は選手たちが一体となって力を発揮できますが、個人の場合はそうはいきません。仲間の勝ちに頼れないので、本当に自分だけの力で上位に入ることを考えねばなりません。

体操個人で金メダルを獲得した1人、山下治広さん。跳馬を得意とした彼は独自の「山下とび」を披露し、当時話題になっていました。

引退後、山下さんは出身校でもある日本大学で体操の指導者となりました。

一方女子バレー大会では、誰もがテレビにくぎつけになり、選手たちの活躍ぶりを見て一生懸命応援していました。

金メダルを取ることは本当に難しく、世界への厚い壁と言ってもいいでしょう。世界一に輝くことへの道ですから、選手たちの懸命なプレーぶりが我々にも伝わってきました。

そして点が入るごとに「それ行け!頑張れ日本!」と応援にも力が入り、目が離せない状態になりました。そして女子バレーが優勝に輝き、金メダルが決まると日本中が湧きかえって大喜びしたのです。

金メダルへの道はどれだけ厳しく、激しかったことでしょうか。本当に感動はいつ見ても目頭が熱くなるものです。