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1988年のオリンピック選考会!名古屋がソウルに負けた理由とは

1964年東京オリンピックが開催された時、戦後初めての日本でのオリンピックということで、日本中が湧きかえっていました。そこでもう一度日本でオリンピックを開催したいということで、1988年開催には名古屋が立候補しました。

当時「名古屋オリンピック構想」と呼ばれていました。そもそも事の始まりは、1977年8月当時の仲谷義明愛知県知事が「名古屋にオリンピックを!」を提案したのです。

そして1979年日本オリンピック委員会にて、名古屋にオリンピック招致が決まりました。その間名古屋市民の間では、1964年東京オリンピック以来の2度目の日本開催に期待が大きく膨らみ、お祭り騒ぎになっていました。

ですが中には否定派もいて、「東京でオリンピック行ったからそれで十分。」などの意見も多く聞かれました。

1981年、立候補の国の1つのオーストラリアが財政上の理由から、招致を諦め、1988年のオリンピック開催の立候補は韓国のソウルと名古屋だけの2か国に絞られました。

ソウルと名古屋の一騎打ちになりましたが、世間では「ソウルより名古屋の方が断然有利!」と誰もが名古屋の勝利を信じていました。

デパートなどではまだ名古屋オリンピック開催が決定していない時から、それに関連するグッズなどを販売する有様でした。

その反面、名古屋でオリンピックを開催するとなると莫大な費用、そして環境までもがすっかり変えられてしまうといった理由から、反対運動も頻繁に行われていました。

そんな騒ぎが続き、1981年9月30日、いよいよ1988年のオリンピック開催地の決定の瞬間が来ました。名古屋優勢だから誰もが名古屋だと確信していました。

しかし国際オリンピック委員会の最終投票では、名古屋よりソウルの方が圧倒的に上回り、「ソウル!」この一言で名古屋オリンピックは、開催されることなく幻となってしまいました。

あれだけ名古屋が勝てる!と誰もが信じていたのに、何故ソウルが勝てたのでしょう?

名古屋ではすでにオリンピックに向けて、スタジアムを何処に建てるのかを決めていました。ですが反対運動が長引いたことで「自然破壊」「財政への懸念」を頻繁に取り上げられていたことがソウルに負けたのではないかと推測されています。

それに同じアジア系の国であっても、ソウルはまだオリンピックの開催国になったことがなく、日本では夏季大会で東京、冬季大会で札幌で行った形跡があるので、ソウル側に是非未経験の国にオリンピック開催を募ってほしいとの国要請があったかもしれません。

この名古屋オリンピック開催の騒動は、今でもはっきり記憶しており、まさか落選するとは殆どの人が思っていませんでした。

東京、札幌で開催されたのだから、名古屋も絶対に!と期待してただけに、ソウルに逆転されたことは本当に大きな落胆を感じずにはいられませんでした。

1988年11月、元愛知県知事の仲谷義明氏が自殺してしまいました。この自殺の原因が「ソウルに負けて名古屋オリンピックを実現出来なかった」かどうかは明らかになってはいません。

その後名古屋は、オリンピック開催には実現出来なかったのを払いのけて、万博開催を提案しました。そして1997年6月に愛知県で万博開催が決まり、2005年愛・地球博を開催することが出来ました。

オリンピックは幻に終わりましたが、その代わりに万博が開催できたので十分な収穫だったと言えるのではないでしょうか?

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新しいプリンス誕生!羽生結弦選手の今後の活躍に期待しよう!

フィギュアスケートは、女性ばかりに注目がいきがちでしたが、ここ近年に置いて、男子でも新しい旋風を吹き込んだ選手がいます。

それが羽生結弦選手です。羽生選手は若手のフィギュアスケート界に置いて、世界中から注目を浴びるようになった有望な選手です。

羽生選手は、1994年(平成6年)12月7日宮城県仙台市で生まれました。小さい頃から喘息を患っています。そもそもスケートを始めたきっかけも喘息を治すためでした。

喘息はストレスなどを強く感じると、苦しい発作に襲われるので、病院にて投薬、吸入などで治療する必要があります。個人差はありますが、喘息は大人になるとほぼ収まると言われています。

しかし、羽生選手の場合、現在も喘息は完治されていません。彼は環境の変化などでストレスを感じると、たちまち発作を起こします。あんなにフィギュアスケートで活躍している彼ですが、健康面ではまだまだ不安要素があったんですね。

喘息発作に襲われた時には、とにかく早く薬を飲んで、吸入を当てて治療するしかありません。

さて、羽生選手が初めてスケートで優勝をしたのは全日本ノービス大会でした。当時彼は9歳の幼い少年でした。姉と一緒にスケート教室に通うようになり、羽生選手は4歳から本格的に滑ることを覚えて行きました。

2012年世界選手権に初出場した羽生選手は、ショートプログラムでは調子が出ず、7位にランク。その後のフリーでは多少のミスはありながらも、素晴らしい力を発揮し、銅メダルを取りました。

その後も色んな大会で好成績で進む羽生選手ではありましたが、やはりジャンプが売り物だけに、足首の怪我もたえませんでした。

2013年4月早稲田大学に進学した羽生選手は、GPファイナルで初優勝し、翌年のソチ大会の選手として選ばれました。それが彼にとって初めての冬季大会への参加の切符となりました。

ソチ大会での羽生選手はショートプログラムでは、見事な演技を見せてくれました。が、フリーの時はサルコウジャンプ、フリップジャンプでミスが多発し、彼自身の中でもうメダルはダメかと思っていました。

でも2位、3位につけていた選手たちもミスがあり、羽生選手の得点を追い抜くことは出来なかったので、結局彼はオリンピック初出場にして金メダルに輝くことが出来ました。

ソチ大会で世界の頂点に達した彼ですが、演技では満足出来るものではなかったらしく、次の平昌大会では完璧な演技をすることを目指してまたトレーニングに励んでいきました。

その後も活躍を見せてくれる羽生選手に、また不本意な怪我が襲います。2017年秋、NHK杯の出場を目指して練習をしていた彼は、運悪く転倒し、右足首を痛めてしまいます。

この怪我のせいで、全日本選手権は欠場せねばならない、何とも残念なことになってしまいました。

でも2018年平昌大会には、正式に出場が決まり、怪我で思うように滑られないのではないかとの心配の声もありました。ですがそこは羽生選手、若さでその心配を払いのけてくれました。

確かに痛みはまだ治まってたわけではなく、痛み止めを注射して出場しました。ですが全てのジャンプはノーミスでこなし、ソチ大会に続いて2連覇を成し遂げました。

日本人初のフィギュアスケート金メダル2連覇!まさに羽生選手は、輝かしいスケート界の新プリンスとなりました。

なかなか達成できなかった日本人フィギュアスケート金メダル獲得は、羽生選手が新しい歴史、そして記録を作ってくれました。今後も期待できる有能な羽生選手です!

マラソン有森裕子さん!彼女のあの言葉はとっても印象的だった!

オリンピック夏季大会でマラソンは最後の方で開催されることが多いです。やはりマラソンも注目の競技なので、見ている方も楽しみであり、ハラハラドキドキの連続でもあります。

マラソンは走る選手に取っては、体調が常に万全じゃないといけません。それに現地の気候や温度も大きく関わってきます。マラソン選手に取って、走ることは3度の食事よりも生きがいとされています。

そんな中、マラソン選手で印象的な言葉を聞かせてくれた女性がいます。それは有森裕子さん。彼女はどんな言葉で印象付けてくれたのかは後程お教えします。

有森さんは、1966年(昭和41年)12月17日岡山県で生まれました。中学時代はバスケット部に所属していましたが、当時から走ることは好きで、運動会など走る競技会ではいつも1位でした。

高校生になってから、陸上部に入部し、本格的に走ることに生きがいを感じるようになった有森さん。尊敬する選手は増田明美さんでした。

その後オリンピックを目指して色々頑張る彼女でしたが、バルセロナ大会に選ばれるまでは何とも険しい道のりがありました。

怪我もあり、なかなかバルセロナ大会への参加権を握れなかった有森さん。でも陸連から怪我が回復した証を見せて欲しいということで、10キロロードレースで完璧な走りっぷりを見せて、やっとバルセロナ大会への参加が認められました。

そして1992年バルセロナ大会のマラソンに出場した有森さんは、ロシアの選手と1位をかけてラストスパートをかけましたが、惜しくも2位となり、銀メダルを獲得しました。

しかし、バルセロナ大会の後、有森さんは足の怪我などで、全く走れない時期がありました。その際、有森さんは酷く落ち込み、選手生命が断たれるのではないかといった不安に襲われました。

ですが手術を受けて、回復期に入った時、有森さんの中に「もう一度オリンピックで走りたい!」と前向きな気持ちが芽生え始め、4年後の1996年アトランタ大会の出場権を見事に獲得しました。

アトランタ大会でも彼女はラストスパートをかけて、頑張りましたが、ライバルの選手に勝つことは出来ず、3位になり、銅メダルを取りました。

その時の有森さんのインタビューでの印象的な言葉とは?「自分で自分を誉めたい。」実に素晴らしい言葉です。これは有森さん自身が「優勝は出来なかったけど、自分はここまで頑張ってこれたんだ!」とそういった意味合いを込めて自分をねぎらったんだと思います。

私にしてみれば、「自分は自分なりに精いっぱい頑張った!それでいいじゃないか!」とも聞こえました。有森さんの「自分で自分を誉めたい。」の言葉がどんなに私の励ましになったことでしょう。

2006年、有森さんは現役引退を表明しました。ですが引退をしても、走ることの情熱は今までと変わることなく続きます。

きっと今後はマラソンコーチなど、有森さんのことですから新しい選手を育てるための教育にも関わるのではないでしょうか?

引退した荒川静香さん&浅田真央さん!過去の大会の活躍は素敵だ

2000年代以降の冬季大会のフィギュアスケートで、特に活躍が目立ったのは、荒川静香さん、浅田真央さんではないでしょうか?

荒川さんは2006年トリノ大会で金メダルを獲得し、日本人女子初の金メダリストとしてその名を挙げました。

一方の浅田さんは2010年バンクーバー大会で銀メダル、2014年ソチ大会で6位入賞を果たすといった活躍ぶりでした。

2人ともすでに引退はしてしまいましたが、過去の演技や栄冠はとても素晴らしいものを残してくれました。

荒川さんが2006年トリノ大会に参加した当時、日本人選手の調子がいまいちで、なかなかメダル獲得者が出ませんでした。「このまま日本人1人もメダル出ないまま、オリンピックが終わってしまうのか?」と落胆の声があがるなか、荒川静香さんのフィギュアスケートに大変期待がかかっていました。

荒川さんの演技の最大の特徴は「イナバウアー」です。でも「イナバウアー」は得点の中には入らず、評価の対象外でした。でもこの後ろに反り繰り返ることって素人では出来ません。荒川さん自身の演技のうりとしていたのでしょう。

でも彼女は本番でも、完璧な演技を見せてくれました。テレビを見ている方も、荒川さんの演技にうっとりしたくらいです。得意とするジャンプもノーミスで、本当に彼女は世界の晴れ舞台のオリンピックで、プレッシャーに負けることなく素晴らしかったです。

やはり「イナバウアー」が出来るのは彼女だけです。体が軟らかいからこそ、あんなに美しく演技出来るのです。そして金メダルが決まった瞬間は、日本全体が喜びに溢れました。

たった1人でも金メダルが出たのです。しかもフィギュアスケートで、日本人女子初の金メダリストの誕生でした。あの時の荒川さん、本当によくやってくれました!

そしてもう1人の活躍した浅田真央さん。実は彼女はあの伊藤みどりさんと同じ愛知県の出身で、伊藤さんと同じ山田コーチにスケートを教わっています。

ですから浅田さんの目標としている人は伊藤みどりさんなのです。5歳の頃からスケートを始め、かつて伊藤さんが着ていたコスチュームを着て、試合に参加したこともあります。

浅田さんに取って、伊藤さんは偉大なる先輩なのです。ですからいい励みになってたのです。

競技では3回転アクセルを得意としている浅田さんです。2010年バンクーバー大会に出場した浅田さんは、銀メダルを取ったにも関わらず、自分の中では納得がいかないと金を取れなかった悔しさをにじませていました。

やはり彼女の中に演技は完ぺきではないといけない!のプライドがあったのかもしれません。そして4年後の2014年ソチ大会で、金を目指す浅田さんです。

ですがソチ大会では金の期待があったにも関わらず、シングルのショートプログラムではミスが続いて16位と不調でした。何とかフリーで巻き返しを!と頑張る浅田さん。

ショートが16位が響いたせいで、メダルは取れませんでしたが、フリーでは彼女らしい完璧な演技でした。その演技を終えた時の浅田さんの表情は、メダル獲得以上の感激ぶりが伝わってきました。

それぞれ素晴らしい活躍を見せてくれた荒川さんと浅田さん。現在の2人はどうしているのでしょうか?

荒川さんは結婚して、女の子を設けても解説者として活躍中ですし、浅田さんはたまにCM出演するなど、タレントに近い活動をされています。

まさしく2人ともフィギュアスケートのプリンセス、あるいはクイーンと言ってもいいのではないでしょうか?

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