夏季大会で、水泳競技の他に結構盛り上がりを見せてくれるのが柔道です。柔道は元々日本で生まれたスポーツであり、今日本だけでなく、海外でも柔道が盛んに行われるようになりました。

柔道は時には警察学校でも取り入れることがあり、身を守るための格闘技となっています。子供の柔道教室もあるくらいですから、日本古来のスポーツはすたることがありません。

そんな柔道に情熱を燃やした選手がいました。それは山下泰弘さん。山下さんは小さい頃から柔道が好きで、将来はオリンピックに出る夢を持っていた少年でした。その山下さんをご紹介します。

山下泰弘さんは、1957年(昭和32年)6月1日熊本県で生まれました。幼少時代から目立って体が大きく、腕白な子供だったので家族を結構困らせていました。そんな山下さんの体の大きさを活かして柔道を教えたのが祖父です。

山下さんは小学校3年生で柔道を習い始め、6年生の時に県内の柔道大会で優勝をしました。その後高校進学を経て、インターハイに出場を決める山下さんでしたが、なかなか優勝への道は厳しいものがありました。

山下さんは子供の頃からの夢、オリンピックへの出場をかけて予選大会に参加していましたが、ここでもなかなか壁が熱く、夢を実現させることは出来ませんでした。

1980年(昭和55年)4月、山下さんは大学院へ進学しました。ここへきてやっとオリンピックの出場権を握ることが出来ました。それがモスクワ大会です。ですが当時日本のオリンピック不参加問題が持ち上がり、残念なことに山下さんは夢にまで見たモスクワ大会への出場が出来なくなり、涙をのむ羽目になってしまいました。

この時の山下さんの気持ちを思うと、本当にやりきれなかったでしょう。折角モスクワ大会では名簿に山下さんの名前が入っていたのに、不参加が持ち上がったことで残念無念でした。

そしてとうとう!1984年(昭和59年)ロサンゼルス大会に山下さんは、出場しました!晴れの舞台で世界中の選手と何処まで戦えるのか?山下さんはモスクワ大会で参加出来なかった無念さを晴らすために、優勝目指して頑張りました。

そして2回戦に挑んだとき、不運にも山下さんは右ふきらはぎの肉離れの怪我をしてしまいました。相手の選手に怪我をしたことが分からないように、山下さんは2回戦3回戦と何とか勝ち進みました。

そして優勝決定戦では、ひたすら痛みに耐え続け、相手の選手を床にねじ伏せて力を振り絞る山下さん。一本ブザーが鳴った瞬間、山下さんの優勝が決まり、金メダル確定!あの優勝が決まった瞬間の山下さんの涙ながらの笑顔は今でもはっきり記憶しています。

肉離れの怪我をしながらも、諦めることなく競技に挑んだ山下さんのスポーツ精神は相当なものです。

テレビを見ていて、何だか自分のことの様に涙しました。あの時の山下さん、とっても輝いていました。

1984年ロサンゼルス大会終了後、今までの功績が認められて、山下さんは「国民栄誉賞」を受賞されました。

現役引退後も山下さんは、柔道界で色んな活躍をされています。柔道のコーチは勿論、2017年(平成29年)にはJOC常務理事を担当しています。

本当に山あり谷ありの多かった山下泰弘さん。笑顔にはとても温かさを感じる人です。これからも後輩たちのよきお手本であってほしいです。