近年では毎回世界中を楽しませてくれる冬季大会。ジャンプスキー、スピードスケート、スノーボード、アイスホッケー、フィギュアスケート実に色々あります。

日本人は元々プレッシャーに弱いところがあり、周囲の期待が大きすぎるともうそれだけで、ストレスやガチガチになりやすいとも言われています。

でも折角晴れの舞台に出場出来たのですから、何としてでも上位に入りたいのは選手ならではこそなのです。

冬季大会も1924年の初代開催・シャモニーを皮切りに、色んなメダリストたちが誕生してきました。

中でも金メダルは、その大会の優勝者、王者であり、選手にとっては輝かしい価値のあるメダルです。手にしたメダルは持ち帰ることが出来るので、選手に取って一生の宝物・財産となります。

さて、長い歴史を刻んできた冬季大会ですが、日本人選手で初めてメダルを取った選手についての詳細を調べてみました。

冬季大会の日本人初代メダリストは、1956年コルティナ(イタリア)大会に参加した猪谷千春さんです。

猪谷さんは、1931年(昭和6年)5月20日、北海道で生まれました。元々北国生まれの人だったんですね。実は猪野さんのご両親もスキーをされていました。

幼い頃からスキーを両親に教わった猪野さん。特に父親からは、スキーのトレーニングを厳しく叩き込まれ、9歳の時にバランス感覚を覚えるために丸木橋を渡る練習もしていました。

スキーは当然冬しか出来ませんから、雪のない季節では猪野さんは、大木を切り倒したり、約40キロにおよぶ山道を歩くなど、これまた父親の厳しいコーチの元鍛えられました。

当時の厳しい父親のやり方に、猪谷さんはスキーなどもうやりたくないと何度も思っていました。

しかしこの厳しいトレーニングを乗り越えて、猪谷さんにオリンピック出場のチャンスが巡ってきました。高校生にして、1952年2月オスロ大会への切符を手にすることが出来ました。

初めてのアルペンスキーのオリンピック出場。この時の猪野さんはどんな思いで出場していたのでしょうか?しかし初めての出場で思うように力が発揮できず、結局成績は11位でした。

この悔しさをバネに、猪谷さんは4年後の冬季オリンピックを目標に頑張っていきました。高校卒業後は、立教大学へ進学し、在学中にアメリカへの留学もされています。

アメリカ留学で勉強の傍ら、猪野さんはスキーのワールドカップに出場し、金メダルを獲得しました。その成果が認められ、1956年コルティナ大会への出場が決定しました。

コルティナ大会に出場した猪野さんは、4年前の大会よりもぐ~んと力を発揮し、見事に日本人初の銀メダルを取ることが出来ました!

銀なので残念ながら優勝の金には届きませんでしたが、例え2位の銀であっても猪野さんにしてみれば、待望のメダル獲得だったのではないでしょうか?

あれから月日が流れて、猪野さんは1982年(昭和57年)国際オリンピック委員会に就かれました。晩年になってからは冬季オリンピックの委員のメンバーの1人として色んな活動や活躍をされてきた猪野さんです。

そして2020年の東京オリンピック・パラリンピックの競技大会組織委員会の一員にも任命が決定されています!

80代の高齢になられても、オリンピック関係にはご多忙の猪谷千春さん。やはり過去のメダリストは大きな場で活躍するんですね。

これからどんな形で活躍されるのか、実に見ものです。