Authorbluefish2017

一体何故?冬季と夏季のオリンピックは同年開催でなくなったのか

昔から、オリンピックは4年に1回、それもうるう年に行うことは決まっていました。ですから夏季大会、冬季大会と2つのオリンピックを見ることが我々は楽しみだったのです。

ですが気が付いたらいつのまにか、夏季大会、冬季大会は同年開催じゃなくなり、完全に別々の年にされ、今では2年に1回夏季と冬季が交代制で行われるようになりました。

少し紛らわしいのですが、夏季、冬季共に同年開催ではなくなっても、各大会は4年に1回は変わっていません。

どうして昔の様に夏季と冬季が同年開催でなくなったのか、理由を調べてみました。

1つのオリンピック開催には、かなりの予算がかかりますね。スタジアムの建設、選手村の確保、競技場などの準備など開催地が決まると、もう数年前から工事が始まります。

そもそも夏季と冬季を完全に分け始めたのは、1994年(平成6年)のリレハンメル大会がきっかけでした。

昔の夏季・冬季大会の盛り上がりをたどってみますと、やはり夏季大会の方が非常に人気があり、テレビの視聴率でも、冬季より夏季の方がダントツ高かったのです。

ですから同年開催ですと、どうしても夏季大会の方に注目がいきがちで、冬季大会は夏季大会程盛り上がりが伸びませんでした。それに冬季大会の参加選手は、夏季大会程多くはありませんでした。

参加人数だけではありません。冬季大会は夏季大会と違って、競技種目が限られていました。やはりジャンプスキーやスノーボードなどは完全な屋外の競技であり、冬の寒い時期の雪がないと絶対に行うことが出来ません。

それに冬季大会の開催地に選ばれるからには、いかに寒い方の国でないといけません。ですから赤道より向こう側の南半球が今まで冬季大会に選ばれたことはありません。

オーストラリアは、冬でも温暖ですし、南アメリカのブラジルでも雪が降ることはありません。ですから冬季大会の開催地は、どうしても北半球に限られてしまいます。

これではどうしても同年開催のオリンピックは夏季も冬季も、北半球に偏ってしまい、なかなか南半球への誘致が進まないことも原因の1つではないでしょうか?

これはあくまで自分自身の個人の推測です。

やはり同じ年に冬季・夏季大会を開催すると、かなり費用がかかりますし、何といっても両方のオリンピックに出場する選手もいましたので、これはかなりトレーニングに時間がなく、しんどかったとも言えます。

国際オリンピック委員会は、夏季と冬季大会を別々にした本当の理由は明かしてはいません。

只考えられることは、いまいち盛り上がらない冬季大会を注目させるためには、夏季大会と同年にしない方が、テレビの視聴率が上がるのではないかと対策を立てたのだと思います。

でも結局夏季大会、冬季大会の開催は別々にして正解だったのです。

現代は開催を2年おきにしたことで、オリンピック開催を視聴者もワクワクして楽しみになるようになりました。

特に昔は夏季大会の人気度の高さで、陰をひそめていた冬季大会も、今では凄く盛り上がりを見せてくれます。それがどうしてだかお分かりですか?

それは冬季大会に出場する選手たちも、夏季大会に負けないくらい活躍し、多くのメダリストが増えたからです!

夏季大会は夏季大会独自の楽しさ、そして冬季大会は冬季大会独自の楽しさがあります。見ている我々も、本当にオリンピック選手を見ていて、手に汗握る応援をして、新しい感動を目の当たりにするようになりました。

2年おきにしたことで、夏季も冬季も両方とも注目度がますます上昇しました。

いつも疑問に思ってた!オリンピックは何故4年に1回の開催なの?

1896年初回オリンピックの開催地、アテネでスタートし、2回目はパリ、3回目はセントルイス、4回目に再びアテネ大会が行われた記録が残っています。

この近代オリンピックは第1回からすでに夏季大会だったことが分かります。

1924年から、フランスのシャモニーモンブランで冬季大会がスタートしました。冬季大会が加わり、1年で2回夏季大会と共にスポーツの祭典が行われることになりました。

さて、オリンピックは4年に1回の開催は殆どの方がご存知でしょう。日頃は何となく「オリンピックは4年に1回行われているものだ。」くらいにしか考えられていません。

それが当たり前としか思っていませんか?皆さんの中にはどうしてオリンピックが4年に1回に行われているのか、その詳しい理由を知りたいと思いませんか?

これは古代オリンピックからさかのぼってちゃんと理由がありました。

古代の時、「4年周期をオリンピアード」とし、それがきっかけで初回の古代オリンピックが行われたことが理由づけられています。

一般論として、古きギリシャ人が太陽暦を8年使用しており、それはとても大切な意味を示していました。ですが最初は8年ごとの開催が、後に4年に変更された説もあります。

それにオリンピックの開催の年って、必ず「うるう年」になってますよね?これは別に理由はないのですが、第1回のアテネ大会がうるう年だったので、偶然そうなったのです。

あれこれ調べると、そんなに難しい理由ではないような気がしますが、大昔のギリシャ人は何かしら特殊なこだわりがあったとも考えられます。

4年に1回のオリンピックだと、何だかすごく次回の大会が先に思えますが、実はその間の4年間とはとても重要なのです。

オリンピックが本格化して、アマチュアから有望な選手を出すための色んな大会が行われます。いわゆるオリンピック出場の資格を得るためです。

記憶に新しい2012年のロンドン大会で調べてみました。例題として柔道を挙げてみます。オリンピックに出場するにはIJFグランプリシリーズに出て、高いポイントを獲得する必要があるのです。

このグランプリ大会で上位ランクで、ポイントを獲得すると晴れてオリンピックの正式選手になれるのです。ですがこの条件は非常に厳しいです。

上位へ入るためには、最低でも○○位までにとどまっていないといけません。これは男女違うのですが、まあ簡単に言えば、勝利数が多いほど有利になれる、ってことです。

なかなかオリンピックの選手になろうとすると、本当に狭き門です。何しろ4年に1回しかないスポーツの祭典ですから。スポーツ選手ならば、誰もが一生に一度は参加してみたい憧れ、そして価値ある大会です。

選考から外れると、今後4年間待たなくてはなりません。スポーツ選手に取って、オリンピックに出場することは最大の目標、そして世界で自分の力を試す重要な場でもあるのです。

残念なことにオリンピックに出られなかったスポーツ選手の悔しさは半端じゃありません。でもその悔しさをばねにして、次の4年後へ賭ける!

まさにスポーツ選手の精神力が養われる重要な4年間とも言えます。

それに各国でオリンピックを開催するとなると、想像もつかないような莫大な費用がかかります。ですから4年に1回の開催で丁度いいような気がします。

これはあくまで自分自身の個人の意見です。

歴史に残る日本人選手!一番最初の金メダリストは一体誰なの?

オリンピックの目玉と言えば、金メダルですね。金メダルを獲得すると、世界中の頂点に立ち、観衆の人々から一気に注目が集まります。本当に素晴らしいことです。

さて、1896年アテネから始まった近代オリンピックですが、徐々に日本人選手の参加も増えてきました。

日本人選手で、一番最初に金メダルを獲得したのは誰だか、皆さんご存知でしょうか?初代日本人選手の金メダル者は、1928年アムステルダム大会の陸上男子三段跳びの「織田幹夫さん」です。この同じオリンピックで、2番目に金メダルを獲得した選手もいます。

それは競泳男子200メートル平泳ぎの「鶴田義行さん」です。この日本人選手2人が初代金メダリストに輝いた功績を残しました。では2人のこの選手の簡単なご紹介をしましょう。

まず歴代最初に金メダルを獲得した織田幹夫さんは、1905年(明治38年)3月30日広島県に生まれました。子供時代から足が早くて、中学時代のマラソン大会で優勝をした経験があります。

高校へ進学した当時、まだ陸上部がなかったため、足の速い織田さんはそれを活かしてサッカー部に入部し、活躍をしていました。

その後暫くして、高校に陸上部が出来始め、織田さんは今までのサッカー部を辞めて本格的に陸上の練習を始めるようになりました。

でも陸上部にはまだ現代の様に顧問の先生がいたわけではありませんでしたから、織田さんは自分の力で練習を積み重ねていきました。彼が初めて陸上競技に参加したのは、「極東選手権競技大会」でした。ですが入賞まではいきませんでした。

それでも負けず嫌いの織田さんは、陸上に情熱を燃やし、1928年(昭和3年)早稲田大学に進学して、そこでも陸上部に入部しました。同年アムステルダム大会への切符を手にして、織田さんは陸上選手として出場、そして初の金メダルを獲得することが出来たのです。

その後織田さんは朝日新聞へ入社し、仕事の傍ら陸上のコーチなどもなさっていました。

次に同じ大会で日本人2番目となる金メダルを獲得した鶴田義行さんは、1903年(明治36年)10月1日鹿児島県に生まれました。鶴田さんは1920年海軍海兵隊に入隊後、本格的に水泳を始めるようになりました。翌年の1925年には明治神宮競技大会や日本選手権水泳大会に出場し、両大会の平泳ぎで見事優勝しました。

その功績が認められ、3年後の1928年アムステルダム大会へ出場し、200メートル平泳ぎで見事優勝、織田さんに続く2人目の金メダリストとなりました。

その後愛媛新聞社に入社して仕事の傍ら、水泳教室を開くなど、多方面でも活躍されていました。

アムステルダム大会では織田さんが日本人として、初めての、そして鶴田さんも同大会で2人目の金メダルを獲得したことは、本当に後々の選手たちに大きな影響を与えましたね。

鶴田さんは4年後の1932年ロサンゼルス大会でも優勝を果たして、オリンピックメダル2連覇を達成するという、好成績を残しました。

この頃から日本人選手のオリンピックでの活躍が光り始めたと言ってもいいでしょう。

最も有名?日本人の女性初の金メダリストは前畑秀子さんだ!

オリンピックでは大概が男性選手の活躍が目立っており、なかなか女性選手からのメダル獲得者は出ることがありませんでした。

でも女性だって負けてはいられません。同じ人間なのですから、男性ほど力が及ばなくても、必ず優勝者は出るはずだと誰もが信じていたのではないでしょうか?

そこで今度はオリンピックで女性で一番最初に金メダルを獲得した女性をご紹介しましょう。それは1936年ベルリン大会に参加した前畑秀子さんです。

前畑さんは1914年(大正3年)5月20日、和歌山県に生まれました。両親は豆腐屋を経営しており、子供時代から前畑さんは泳ぐことの好きな少女でした。

前畑さんは中学時代から、色んな水泳大会に出場しては優勝を果たし、その功績をたたえたことで、校長から前畑さんは、椙山女学園(愛知県・名古屋市)へ進学を勧められました。当初前畑さんは両親の家業を手伝うつもりで、水泳も止めるつもりではありましたが、椙山学園長の説得もあってか、あえて進学することにしました。

椙山女学園は水泳に力を入れている学校です。ですから前畑さんにしてみれば、大好きな水泳を続けながら、学校の勉強も出来るといった、素晴らしい条件に恵まれていました。

そんな恵まれた状況の中、前畑さんに急な不幸が襲いました。高校在学中の1931年(昭和6年)に両親を病気で相次いで亡くしてしまいました。

両親が他界した5年後、悲しみを乗り越えて前畑さんは、1938年(昭和11年)ベルリン大会に出場します。200メートル平泳ぎに参加していました。この参加には大きなエピソードがあります。そう、殆どの方が知っているかと思います。

前畑さんが参加した200メートルは、ラジオ中継されていましたが、当時の日本人アナウンサーが前畑さんを応援するあまり、「前畑ガンバレ!ガンバレ、前畑!負けるな~!」と熱が入ってしまい、ラジオを聞いていた民衆を驚かせました。

ですが前畑さんは、見事に優勝、女性として日本人初の金メダルに輝きました。

この「前畑ガンバレ!」は今後歴史に残る語りとなり、今でもそれは受け継がれています。年配者の皆さん程この言葉は印象に強く残っています。

前畑さんが女性初の金メダルを取り、多くの日本人女性が男性にも負けないで出来ることはあるんだ!と学んだのではないでしょうか。

ベルリン大会の翌年、前畑さんは名古屋大学助手の兵藤正彦さんと結婚し、前畑性から兵藤性に変わりました。

前畑さんは兵藤性になってからも、色々活躍の場を設けていました。現役引退後は、椙山女子学園の職員となり、ママさん、子供向け水泳教室などを開いて、水泳のコーチになりました。

兵藤さんは結婚後2人のお子さんを授かります。でも子育てをしながら、水泳に対する情熱は引退後も変わることなく、水泳の指導者としてもますます活躍していました。

「前畑ガンバレ!」のセリフは今でも覚えている人が多く、いかに前畑さん(兵藤さん)が残した記録や感動はいかに大きかったことが分かりました。次の世代にも語り継がれていくことでしょう。

1964年東京オリンピック!日本人選手の活躍が大いに目立った!

太平洋戦争で見事に廃墟となった日本列島に、新しい風が舞い込みました。それが1964年(昭和39年)の東京オリンピックです。実は東京オリンピックが決まるまでは、大変だったのです。

1954年(昭和29年)、1960年(昭和35年)のオリンピック開催地に東京は立候補をしたのですが、IOC総会でライバルのローマに投票で敗れてしまった苦い記録があります。

その後もう一度1964年(昭和39年)こそ東京にオリンピックを!と願いを込めて、再度1959年(昭和34年)に立候補し、IOC総会の投票で2位のアメリカを破って、正式に東京オリンピックが決定しました。

1964年東京オリンピック開催は、10月10日~24日まで行われました。秋だったんですね。ですから10月10日の東京オリンピックの開会式を記念して、その後「体育の日」として祝日になりました。

この開会式はテレビでも放送され、日本の戦後初の祭典として大いに盛り上がりを見せることになりました。やはり地元日本でのオリンピック開催とあって、国内は大変な人気で賑わっていました。

その中でも日本人選手の活躍は素晴らしかったです。当時のメダル獲得数は、金16個、銀5個、銅8個の合計29個です。特に目を引いたのは、女子バレーボールです。東京オリンピックで国内初の金メダルを獲得し、感動旋風を巻き起こしました。

女子バレーボールの他、日本人選手の活躍で感動したのは、男子体操の団体と個人の優勝です。

体操はテレビで見ている我々もハラハラドキドキしますが、演技を披露する選手の方がもっと緊張していたことでしょう。毎日プレッシャーとの戦いで、この世界大会でいかにいい成績を勝ち取らなければならない…それが日頃の練習の証として出るのです。

1つでも失敗すれば減点か、あるいは最悪失格にもなりかねません。特に着地は大きく得点に左右するので、演技する選手たちは慎重な面持ちで参加していたことでしょう。

特に男子体操の難しいとされる、つり輪や跳馬。あれこそ両手でやるのですから、本当に集中力・精神力が必要です。でもあれって本当に凄いですよ、いつ見ても。女子にはとても真似出来ません。

でも団体と個人とでは大きく違いますからね。団体は選手たちが一体となって力を発揮できますが、個人の場合はそうはいきません。仲間の勝ちに頼れないので、本当に自分だけの力で上位に入ることを考えねばなりません。

体操個人で金メダルを獲得した1人、山下治広さん。跳馬を得意とした彼は独自の「山下とび」を披露し、当時話題になっていました。

引退後、山下さんは出身校でもある日本大学で体操の指導者となりました。

一方女子バレー大会では、誰もがテレビにくぎつけになり、選手たちの活躍ぶりを見て一生懸命応援していました。

金メダルを取ることは本当に難しく、世界への厚い壁と言ってもいいでしょう。世界一に輝くことへの道ですから、選手たちの懸命なプレーぶりが我々にも伝わってきました。

そして点が入るごとに「それ行け!頑張れ日本!」と応援にも力が入り、目が離せない状態になりました。そして女子バレーが優勝に輝き、金メダルが決まると日本中が湧きかえって大喜びしたのです。

金メダルへの道はどれだけ厳しく、激しかったことでしょうか。本当に感動はいつ見ても目頭が熱くなるものです。

1976年モントリオール大会!歴史に残る満点を出した体操選手って

1976年、カナダのモントリオールでオリンピックが開催されました。期間は7月17日~8月1日までということで、もうこの頃はオリンピックは完全に夏に行われていたことが分かります。

4年に1回のスポーツの祭典のオリンピックはどんどん進むごとに、歴史に名前を残す選手が誕生しました。これは日本人じゃなく、他国の選手でもそうです。

金メダルでも日本人選手は、全部で9個獲得する素晴らしい活躍ぶりを見せてくれました。東京大会の時と同様、女子バレー、男子体操総合団体、個人プレーでも金メダルを取ることが出来ました。

モントリオール大会で日本人選手が活躍する中、女子体操選手で唯一満点の高得点を取って、金メダルに輝いた選手がいます。皆さんは知っていますか?

それはルーマニア出身のナディア・エレーナ・コマネチです。彼女は6歳の時から体操を始めました。体操のコーチにコマネチは、才能を見出されて本格的に体操の練習に励んでいきました。

初めての国内大会で、コマネチは13位にランク入りを果たし、まずまずの成績でした。そして彼女は14歳でモントリオール大会の女子体操に出場することになります。

可愛らしい白いレオタード姿が、愛らしかったのか、彼女は「白い妖精」と呼ばれていました。14歳にしては堂々たる演技で、段違い平行棒、平均台で歴代オリンピック初の10点満点の高得点を取りました。

今まで体操で10点満を取得した選手は1人もおらず、当時の得点ボードは9.99までしか表示出来ませんでした。IOC委員会は満点を出せる選手などいないだろうと想定して、9.99までの数字表示しか設定していなかったのです。

コマネチはモントリオール大会で、個人、団体と合わせて3個の金メダルを獲得し、一躍知名度を挙げていくこととなりました。

その後の大会で、コマネチの様に体操で満点を出す選手は現れることがなく、彼女は本当にただ1人の体操での満点選手となってしまいました。

モントリオール大会後も、コマネチは活躍を続けますが、突如として彼女に大きな変化が訪れます。それは両親の離婚や過激な体操の練習のストレスで、一気に体重が増えてしまい、体系が崩れてしまいました。

体重が増えた状態で世界体操競技会に出場し、再度得意とする段違い平行棒にチャレンジしますが、演技の途中で落下するなどのアクシデントに見舞われました。

1979年(昭和54年)、コマネチは何とか現役続行出来るように、また前の様にスマートになり世界選手権大会に出場するも、運悪く手首を大けがしてしまい、その痛みに耐えながらも金メダルを取ることが出来ました。

ですが怪我の程度は思った以上に重く、手術して入院する羽目になってしまいました。

そして1981年(昭和56年)現役を引退して、その後は国際オリンピック委員会の委員に抜擢されました。

私生活では1996年(平成8年)4月に故郷のルーマニアで結婚し、男の子を設けました。

母親となったコマネチはその後世界選手権や2008年(平成20年)の北京大会の体操競技の解説者としても活躍していました。

オリンピックの体操競技で満点を出したコマネチですが、この記録は今の所誰も破ってはいません。いかに彼女は実力があったってことがハッキリと分かりました。

1980年モスクワ大会!何故日本は不参加になってしまったの?

オリンピックは時代と共に、様々な有望選手を送りだし、競技をすることで感動や悔しさを我々にも伝えてくれました。

4年に1回のこのスポーツの祭典、実は1度だけ日本が不参加になってしまったという、残念な記録があるのです。

それは1980年(昭和55年)のモスクワ大会でした。ちゃんとオリンピック選手も決まっておきながら、例のないモスクワ大会の不参加。一体日本に何が起きたというのでしょうか?

まずモスクワ大会が決まった経緯についてですが、1972年(昭和47年)10月、オーストリアのクイーンにて国際オリンピック委員会の投票にて決定しました。

1980年(昭和55年)1月、当時のカーター大統領が、ソ連との冷戦関係にあったため、モスクワ大会へは参加しないことを表明しました。要するにアメリカとソ連は国同士仲が良かったわけではありません。

だからといって戦争は起こしてはいませんでした。関係の冷え切った所にアメリカ政府は選手を送り込む気などなく、不参加というよりは寧ろボイコットを決めたのです。

モスクワ大会が行われた当時のソ連は、多くの国と対立関係にあり、特に中国やイラン、サウジアラビアなどもすでにボイコット表明を出していました。

あれよあれよとボイコットの国続出で、日本までもが不参加、ボイコットせざるを得なくなりました。

つまりカーター大統領がボイコットをしたために、日本政府もそれに従わなくてはならなくなったのです。

日本は太平洋戦争で、完全にアメリカに敗北し、戦後は同盟国となりました。ですから結局はアメリカの支配下にある日本なので、逆らえないのでしょう。

日本政府がモスクワ大会に完全に不参加を決定したのは、1980年5月のことでした。その前の4月に、モスクワ大会に選手として正式任命された人達が「何とか参加を認めて欲しい。」と申し出がありましたが、それは叶うことがありませんでした。

この時、選手として選ばれた人達は本当に悔しい、残念、無念しかなかったことでしょう。

オリンピックの出場権を勝ち取るだけでも、凄く大変なことなのに、モスクワ大会では全員が不参加の結果となり、涙をのみました。

結局はソ連とアメリカの関係が、当時芳しくない理由から、日本までもが不参加・ボイコットの犠牲になってしまった、としかいいようがありません。

モスクワ大会に参加するはずだった選手のメンバーとして、マラソンは瀬古利彦さん、双子の兄弟の宗茂さん、宗猛さん、柔道には山下泰裕さんの名前もありました。

まだ若き彼らは本当にモスクワ大会を目指して、トレーニングを積んでいたのです。折角の努力がモスクワ不参加決定で、全てが水の泡になってしまいました。

特にマラソンの瀬古さんや宗兄弟は、この時代は共にいいライバルとして、国際マラソンに出場していました。この3人がマラソンに出るたびに、テレビを見ていました。

ですからモスクワ大会で、彼ら3人が晴れのオリンピックの舞台でまた走る姿を見ることを楽しみにしていたのですが、不参加決定でとても残念でした。

でも私達以上に残念だったのは、参加するはずだった瀬古さんをはじめとする選手の皆さんです。本当に今まで何のために頑張ってきたのか、ここまでの険しい道のりを超えてきたのに、ここへ来て何故…と皆さん相当悔しい思いをされていたことでしょう。

本当に忘れることの出来ない、残念な不参加結果でした。

夏季大会だけではない!冬季大会で活躍した日本人選手たちとは?

オリンピックは、どうしても夏季大会に話題が偏りがちです。もう1つの冬季大会も忘れてはいけません。

冬季大会も4年に1回の開催で、初代の開催地は1924年のフランスのシャモニーでした。初代では参加国は少ないのは勿論、その分選手も少なかったです。

ですか初代夏季大会のアテネの時と違って、シャモニー大会ではすでに女性のオリンピック参加も認められ、女性選手の参加人数も男性選手の人数とほぼ変わらない状態でした。

冬季大会といえば、スキー、スケート、アイスホッケーなど、冬にしか出来ないスポーツの祭典でした。

ですがこの冬季大会、1940年は札幌、1944年にはイタリアのコルチナに開催が決定していたにも関わらず、第二次世界大戦の真っ最中で中止となってしまいました。

そして戦後最初に冬季大会が行われたのは、スイスのサンモリッツでした。この大会をきっかけに冬季大会の参加選手はどんどん増え始め、1964年のオーストリアのインスブルック大会では、とうとう1,000人を超しました。

現代も冬季大会では1,000人以上の人数を保ち続けています。さて、この冬季大会で活躍した日本人選手を調べてみましょう。

名誉ある日本人初代の初のメダリストは、1960年コンチダナンペッツオ大会で銀メダルを獲得したスキーの猪谷千春さんです。この大会では猪谷さん只1人の他に金や銅を取った選手はいませんでした。

それでは初の金メダルを獲得したのは、誰なのでしょうか?それは1972年札幌大会で、ジャンプスキー70mに参加した笠谷幸生さんでした。何と!地元日本で日本人の初の金メダル獲得者が出たいうことは、当時としては価値ある、そして名誉だったんでしょうね。

この札幌大会では、笠谷さんが金、金野昭次さんが銀、青地清二さんが銅と全員スキージャンプ70mで上位3位、メダルを総なめにしたことが分かりました。

冬季大会では、なかなか日本人選手のメダル獲得には遠いものがあり、苦戦を強いられた選手が多く見られました。

ですが1992年のアルベールビル大会から、メダルを獲得する日本人選手がどんどん増えてきて、スキーだけでなく、冬季の花形フィギュアスケート、スピードスケートなどでも活躍して知名度が上がってきました。

特に1998年長野大会では、男子のスキージャンプラージヒルの個人、団体共に金メダルに輝き、大きな話題と感動を呼びました。

特に女性で只1人金メダルを獲得した、スキーフリースタイルモーグルの黒谷多英さん!あの素晴らしい演技は今でも忘れることが出来ません。

やはり日本開催だと、日本人選手は力が発揮出来るのでしょうか?いえいえ、その後開催地が変わっても日本人選手は頑張ってメダルを獲得しています。

いつもテレビで見ていて不思議に思うのは、ジャンプスキーのバランスのいい飛び方なんです。あんなに高いところから滑って雪の上を着地するあの独特の演技!

ジャンプスキー選手の皆さん、怖くないんでしょうか?でも怖かったら参加出来ませんね。

相当なトレーニングを積んで、あそこまでになるには本当に大変です。う~ん、冬季は夏季とは違ったまた素晴らしいものが沢山あります!

冬季大会の初代メダリスト!一体誰なのか教えてほしい!

近年では毎回世界中を楽しませてくれる冬季大会。ジャンプスキー、スピードスケート、スノーボード、アイスホッケー、フィギュアスケート実に色々あります。

日本人は元々プレッシャーに弱いところがあり、周囲の期待が大きすぎるともうそれだけで、ストレスやガチガチになりやすいとも言われています。

でも折角晴れの舞台に出場出来たのですから、何としてでも上位に入りたいのは選手ならではこそなのです。

冬季大会も1924年の初代開催・シャモニーを皮切りに、色んなメダリストたちが誕生してきました。

中でも金メダルは、その大会の優勝者、王者であり、選手にとっては輝かしい価値のあるメダルです。手にしたメダルは持ち帰ることが出来るので、選手に取って一生の宝物・財産となります。

さて、長い歴史を刻んできた冬季大会ですが、日本人選手で初めてメダルを取った選手についての詳細を調べてみました。

冬季大会の日本人初代メダリストは、1956年コルティナ(イタリア)大会に参加した猪谷千春さんです。

猪谷さんは、1931年(昭和6年)5月20日、北海道で生まれました。元々北国生まれの人だったんですね。実は猪野さんのご両親もスキーをされていました。

幼い頃からスキーを両親に教わった猪野さん。特に父親からは、スキーのトレーニングを厳しく叩き込まれ、9歳の時にバランス感覚を覚えるために丸木橋を渡る練習もしていました。

スキーは当然冬しか出来ませんから、雪のない季節では猪野さんは、大木を切り倒したり、約40キロにおよぶ山道を歩くなど、これまた父親の厳しいコーチの元鍛えられました。

当時の厳しい父親のやり方に、猪谷さんはスキーなどもうやりたくないと何度も思っていました。

しかしこの厳しいトレーニングを乗り越えて、猪谷さんにオリンピック出場のチャンスが巡ってきました。高校生にして、1952年2月オスロ大会への切符を手にすることが出来ました。

初めてのアルペンスキーのオリンピック出場。この時の猪野さんはどんな思いで出場していたのでしょうか?しかし初めての出場で思うように力が発揮できず、結局成績は11位でした。

この悔しさをバネに、猪谷さんは4年後の冬季オリンピックを目標に頑張っていきました。高校卒業後は、立教大学へ進学し、在学中にアメリカへの留学もされています。

アメリカ留学で勉強の傍ら、猪野さんはスキーのワールドカップに出場し、金メダルを獲得しました。その成果が認められ、1956年コルティナ大会への出場が決定しました。

コルティナ大会に出場した猪野さんは、4年前の大会よりもぐ~んと力を発揮し、見事に日本人初の銀メダルを取ることが出来ました!

銀なので残念ながら優勝の金には届きませんでしたが、例え2位の銀であっても猪野さんにしてみれば、待望のメダル獲得だったのではないでしょうか?

あれから月日が流れて、猪野さんは1982年(昭和57年)国際オリンピック委員会に就かれました。晩年になってからは冬季オリンピックの委員のメンバーの1人として色んな活動や活躍をされてきた猪野さんです。

そして2020年の東京オリンピック・パラリンピックの競技大会組織委員会の一員にも任命が決定されています!

80代の高齢になられても、オリンピック関係にはご多忙の猪谷千春さん。やはり過去のメダリストは大きな場で活躍するんですね。

これからどんな形で活躍されるのか、実に見ものです。

オリンピックの歴史!初回は何処で開催されたのか知っていますか?

古代オリンピックが終わりを告げた1500年後、近代オリンピックが産声をあげました。現代まで持続している五輪の輪をシンボルマークにして、古代の時とはまた違った近代の幕開け!初回の開催地は何処だったのでしょうか?

近代オリンピックの第1回開催地は、すでにご存知の方も多いかと思いますが、ギリシャのアテネです。近代オリンピックの故郷とも呼ばれています。

第1回オリンピックのアテネが開催されたのは、1896年4月6日~15日です。何と季節が春のいい時期に行われていたんですね!

第1回アテネに開催されるまでにはエピソードがありました。この時代のギリシャは、様々な難問題を抱えており、一時はアテネで開催されることが難しい状況まで陥りました。

ですが国際オリンピック委員会を担当したギリシャ人たちのお蔭で努力が実って、アテネで開催されることが正式に決定したのです。

オリンピックの開催地を決めるのも、色々大変だったことが伺えます。

さて、第1回アテネ大会に参加した選手たちは、何と!男子のみに限られていました。当時の大会でも、女子参加は出来ないと厳しい禁止令がありました。

大昔は何でも男子優勢で、女子は不利だったんですね。現代ですと完全に性別差別に当たります。

行われた競技は第1回から、陸上、水泳、体操、レスリングは取り入れられていました。参加選手は男子のみ約300人でした。アメリカやヨーロッパ先進国など約15か国が参加、近代オリンピックの本格的なスタートを切りました。

開催は10日間でしたが、第1回のアテネ大会から当時参加した選手の活躍は素晴らしいものがありました。特に陸上競技ではアメリカ人の活躍が目立ち、優勝者が多く出ました。

陸上競技に関しては、アメリカはまさに強い力を発揮し、今後のオリンピックでも新しい記録や歴史を残していきました。

当時オリンピック会場には、多くの見物客が押しかけました。まさにスポーツの祭典として、第1回から人気が高まったことが伺えます。

ですが開催地がギリシャとあって、アメリカの陸上競技の強さに圧倒されたのか、なかなかギリシャ人の優勝者は出ませんでした。

陸上競技の目玉は何といってもマラソンです。地元ギリシャ人からなかなか優勝者が出ないので、見物客は「もうギリシャ人からの優勝が出るのは無理かもしれない。」と落胆し始めていました。

マラソン大会の選手の殆どは、地元ギリシャ・アテネでもあるので半分以上がギリシャ人でした。そこで何としてでもアメリカ人の強さを抑えべく、ギリシャ人の根性を発揮、マラソンの最終距離でギリシャ選手がスピードを出してトップに躍り出て、優勝を勝ち取ったのです。

どんなスポーツでも、勝ちがあれば必ず負けがあります。これは誰もが知ってる当たり前のことですが、第1回のアテネ大会をスタートに、近代オリンピックの歴史に多くの感動や記録が残っていくこととなり、素晴らしいものを世界中に伝えて行ける運びとなっていくのです。

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