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新しいプリンス誕生!羽生結弦選手の今後の活躍に期待しよう!

フィギュアスケートは、女性ばかりに注目がいきがちでしたが、ここ近年に置いて、男子でも新しい旋風を吹き込んだ選手がいます。

それが羽生結弦選手です。羽生選手は若手のフィギュアスケート界に置いて、世界中から注目を浴びるようになった有望な選手です。

羽生選手は、1994年(平成6年)12月7日宮城県仙台市で生まれました。小さい頃から喘息を患っています。そもそもスケートを始めたきっかけも喘息を治すためでした。

喘息はストレスなどを強く感じると、苦しい発作に襲われるので、病院にて投薬、吸入などで治療する必要があります。個人差はありますが、喘息は大人になるとほぼ収まると言われています。

しかし、羽生選手の場合、現在も喘息は完治されていません。彼は環境の変化などでストレスを感じると、たちまち発作を起こします。あんなにフィギュアスケートで活躍している彼ですが、健康面ではまだまだ不安要素があったんですね。

喘息発作に襲われた時には、とにかく早く薬を飲んで、吸入を当てて治療するしかありません。

さて、羽生選手が初めてスケートで優勝をしたのは全日本ノービス大会でした。当時彼は9歳の幼い少年でした。姉と一緒にスケート教室に通うようになり、羽生選手は4歳から本格的に滑ることを覚えて行きました。

2012年世界選手権に初出場した羽生選手は、ショートプログラムでは調子が出ず、7位にランク。その後のフリーでは多少のミスはありながらも、素晴らしい力を発揮し、銅メダルを取りました。

その後も色んな大会で好成績で進む羽生選手ではありましたが、やはりジャンプが売り物だけに、足首の怪我もたえませんでした。

2013年4月早稲田大学に進学した羽生選手は、GPファイナルで初優勝し、翌年のソチ大会の選手として選ばれました。それが彼にとって初めての冬季大会への参加の切符となりました。

ソチ大会での羽生選手はショートプログラムでは、見事な演技を見せてくれました。が、フリーの時はサルコウジャンプ、フリップジャンプでミスが多発し、彼自身の中でもうメダルはダメかと思っていました。

でも2位、3位につけていた選手たちもミスがあり、羽生選手の得点を追い抜くことは出来なかったので、結局彼はオリンピック初出場にして金メダルに輝くことが出来ました。

ソチ大会で世界の頂点に達した彼ですが、演技では満足出来るものではなかったらしく、次の平昌大会では完璧な演技をすることを目指してまたトレーニングに励んでいきました。

その後も活躍を見せてくれる羽生選手に、また不本意な怪我が襲います。2017年秋、NHK杯の出場を目指して練習をしていた彼は、運悪く転倒し、右足首を痛めてしまいます。

この怪我のせいで、全日本選手権は欠場せねばならない、何とも残念なことになってしまいました。

でも2018年平昌大会には、正式に出場が決まり、怪我で思うように滑られないのではないかとの心配の声もありました。ですがそこは羽生選手、若さでその心配を払いのけてくれました。

確かに痛みはまだ治まってたわけではなく、痛み止めを注射して出場しました。ですが全てのジャンプはノーミスでこなし、ソチ大会に続いて2連覇を成し遂げました。

日本人初のフィギュアスケート金メダル2連覇!まさに羽生選手は、輝かしいスケート界の新プリンスとなりました。

なかなか達成できなかった日本人フィギュアスケート金メダル獲得は、羽生選手が新しい歴史、そして記録を作ってくれました。今後も期待できる有能な羽生選手です!

マラソン有森裕子さん!彼女のあの言葉はとっても印象的だった!

オリンピック夏季大会でマラソンは最後の方で開催されることが多いです。やはりマラソンも注目の競技なので、見ている方も楽しみであり、ハラハラドキドキの連続でもあります。

マラソンは走る選手に取っては、体調が常に万全じゃないといけません。それに現地の気候や温度も大きく関わってきます。マラソン選手に取って、走ることは3度の食事よりも生きがいとされています。

そんな中、マラソン選手で印象的な言葉を聞かせてくれた女性がいます。それは有森裕子さん。彼女はどんな言葉で印象付けてくれたのかは後程お教えします。

有森さんは、1966年(昭和41年)12月17日岡山県で生まれました。中学時代はバスケット部に所属していましたが、当時から走ることは好きで、運動会など走る競技会ではいつも1位でした。

高校生になってから、陸上部に入部し、本格的に走ることに生きがいを感じるようになった有森さん。尊敬する選手は増田明美さんでした。

その後オリンピックを目指して色々頑張る彼女でしたが、バルセロナ大会に選ばれるまでは何とも険しい道のりがありました。

怪我もあり、なかなかバルセロナ大会への参加権を握れなかった有森さん。でも陸連から怪我が回復した証を見せて欲しいということで、10キロロードレースで完璧な走りっぷりを見せて、やっとバルセロナ大会への参加が認められました。

そして1992年バルセロナ大会のマラソンに出場した有森さんは、ロシアの選手と1位をかけてラストスパートをかけましたが、惜しくも2位となり、銀メダルを獲得しました。

しかし、バルセロナ大会の後、有森さんは足の怪我などで、全く走れない時期がありました。その際、有森さんは酷く落ち込み、選手生命が断たれるのではないかといった不安に襲われました。

ですが手術を受けて、回復期に入った時、有森さんの中に「もう一度オリンピックで走りたい!」と前向きな気持ちが芽生え始め、4年後の1996年アトランタ大会の出場権を見事に獲得しました。

アトランタ大会でも彼女はラストスパートをかけて、頑張りましたが、ライバルの選手に勝つことは出来ず、3位になり、銅メダルを取りました。

その時の有森さんのインタビューでの印象的な言葉とは?「自分で自分を誉めたい。」実に素晴らしい言葉です。これは有森さん自身が「優勝は出来なかったけど、自分はここまで頑張ってこれたんだ!」とそういった意味合いを込めて自分をねぎらったんだと思います。

私にしてみれば、「自分は自分なりに精いっぱい頑張った!それでいいじゃないか!」とも聞こえました。有森さんの「自分で自分を誉めたい。」の言葉がどんなに私の励ましになったことでしょう。

2006年、有森さんは現役引退を表明しました。ですが引退をしても、走ることの情熱は今までと変わることなく続きます。

きっと今後はマラソンコーチなど、有森さんのことですから新しい選手を育てるための教育にも関わるのではないでしょうか?

引退した荒川静香さん&浅田真央さん!過去の大会の活躍は素敵だ

2000年代以降の冬季大会のフィギュアスケートで、特に活躍が目立ったのは、荒川静香さん、浅田真央さんではないでしょうか?

荒川さんは2006年トリノ大会で金メダルを獲得し、日本人女子初の金メダリストとしてその名を挙げました。

一方の浅田さんは2010年バンクーバー大会で銀メダル、2014年ソチ大会で6位入賞を果たすといった活躍ぶりでした。

2人ともすでに引退はしてしまいましたが、過去の演技や栄冠はとても素晴らしいものを残してくれました。

荒川さんが2006年トリノ大会に参加した当時、日本人選手の調子がいまいちで、なかなかメダル獲得者が出ませんでした。「このまま日本人1人もメダル出ないまま、オリンピックが終わってしまうのか?」と落胆の声があがるなか、荒川静香さんのフィギュアスケートに大変期待がかかっていました。

荒川さんの演技の最大の特徴は「イナバウアー」です。でも「イナバウアー」は得点の中には入らず、評価の対象外でした。でもこの後ろに反り繰り返ることって素人では出来ません。荒川さん自身の演技のうりとしていたのでしょう。

でも彼女は本番でも、完璧な演技を見せてくれました。テレビを見ている方も、荒川さんの演技にうっとりしたくらいです。得意とするジャンプもノーミスで、本当に彼女は世界の晴れ舞台のオリンピックで、プレッシャーに負けることなく素晴らしかったです。

やはり「イナバウアー」が出来るのは彼女だけです。体が軟らかいからこそ、あんなに美しく演技出来るのです。そして金メダルが決まった瞬間は、日本全体が喜びに溢れました。

たった1人でも金メダルが出たのです。しかもフィギュアスケートで、日本人女子初の金メダリストの誕生でした。あの時の荒川さん、本当によくやってくれました!

そしてもう1人の活躍した浅田真央さん。実は彼女はあの伊藤みどりさんと同じ愛知県の出身で、伊藤さんと同じ山田コーチにスケートを教わっています。

ですから浅田さんの目標としている人は伊藤みどりさんなのです。5歳の頃からスケートを始め、かつて伊藤さんが着ていたコスチュームを着て、試合に参加したこともあります。

浅田さんに取って、伊藤さんは偉大なる先輩なのです。ですからいい励みになってたのです。

競技では3回転アクセルを得意としている浅田さんです。2010年バンクーバー大会に出場した浅田さんは、銀メダルを取ったにも関わらず、自分の中では納得がいかないと金を取れなかった悔しさをにじませていました。

やはり彼女の中に演技は完ぺきではないといけない!のプライドがあったのかもしれません。そして4年後の2014年ソチ大会で、金を目指す浅田さんです。

ですがソチ大会では金の期待があったにも関わらず、シングルのショートプログラムではミスが続いて16位と不調でした。何とかフリーで巻き返しを!と頑張る浅田さん。

ショートが16位が響いたせいで、メダルは取れませんでしたが、フリーでは彼女らしい完璧な演技でした。その演技を終えた時の浅田さんの表情は、メダル獲得以上の感激ぶりが伝わってきました。

それぞれ素晴らしい活躍を見せてくれた荒川さんと浅田さん。現在の2人はどうしているのでしょうか?

荒川さんは結婚して、女の子を設けても解説者として活躍中ですし、浅田さんはたまにCM出演するなど、タレントに近い活動をされています。

まさしく2人ともフィギュアスケートのプリンセス、あるいはクイーンと言ってもいいのではないでしょうか?

冬季大会の花形フィギュアスケート!歴代で活躍した選手たちとは

冬季大会で一番花形といわれるフィギュアスケート。昔は氷の上のバレエと言われるように、実に華麗で選手が滑ると本当に一度に華やかさが舞うといった美しさがあります。

特に女子フィギュアは選手たちの着るコスチュームに憧れて、私の子供時代は、スケート教室に通う女の子もいたくらいです。そこで私自身、フィギュアスケートで歴代で活躍したとても印象に残っている選手をご紹介します。

それは渡辺絵美さんと伊藤みどりさんです。

まず渡辺絵美さんですが、彼女は1959年(昭和34年)8月27日東京で生まれました。父が日本人、母がフィリピン人なのでハーフなのです。

2歳からスケートを始めた彼女は元銅メダリストのコーチを受けながら、12歳で本格的にフィギュアスケートを覚え始めたのです。全日本フィギュアスケート選手権大会で彼女は8回連続の優勝を果たしました。

渡辺さんのオリンピック正式出場は、1976年インスブルック大会で当時16歳でした。メダル獲得にはなりませんでしたが、13位に入りました。

得意技はフリーのトゥループ、サルコウ3回転ジャンプです。1980年(昭和55年)6月、渡辺さんは現役引退をしました。

それから印象に残っているもう1人の伊藤みどりさん。彼女は1969年(昭和44年)8月13日愛知県名古屋市で生まれました。両親は離婚していました。

スケートを始めたのは3歳の時でした。スポーツセンターに通っては、スケートを練習していた彼女ですが、他の生徒よりもスバ抜けて上達が早かったそうです。

その後伊藤さんは、師匠の山田真知子さんの家で暮らすようになり、家族同然となりました。実は伊藤さんがフィギュアスケートを始めたころは何と渡辺絵美さんが憧れの選手だったのです。

そして伊藤さんもまた、渡辺さんと同じく全日本フィギュアスケート選手権大会の8連覇を成し遂げた実力者です。憧れの人と記録が同じだとすると、伊藤さんにとってはかなり自信につながったと言えます。

しかし育ち盛りの伊藤さんにとって、スケートをする傍ら食生活には偏食が多く、苦悩したものです。小学校時代は好き嫌いが激しく、魚しか食べなかった伊藤さんですが、中学時代には何とか好き嫌いは改善したものの、今度は体重が増えすぎてしまいました。

ですからジャンプの着地の練習などで、骨折の怪我がたえなかったのです。

練習を積み重ねて、1987年(昭和62年)カルガリー大会に伊藤さんは初出場します。彼女の売り物は3回転半ジャンプです。小型の体を活かして、他の選手よりも高く飛ぶことが、彼女の高得点への道でした。当時は5位で終わりました。

そして伊藤みどりさん最大の頂点が訪れます。1992年アルベールビル大会です。

まだ日本人女子から、フィギュアスケートの金メダル獲得者がなく、伊藤さんは当時メダルの期待がかかっていました。

しかしプレッシャーからきたのか、伊藤さんはオリジナルプログラムで得意とする3回転アクセルに失敗、結果が4位となりました。ですがフリーでも転倒はあったものの、後半で持ち直して、2位に入賞し、銀メダルを獲得することが出来ました。

一時はプロに変わるなどした伊藤さんでしたが、好成績は残すものの、体調がよくないこともありました。1996年、伊藤さんは引退をしました。

現在は伊藤みどりさんは、福岡でスケートのコーチをしています。渡辺絵美さんはタレントとして活躍しています。

2人の共通点は全日本フィギュアスケート選手権大会の8連覇です。この記録はまだ誰も破ってはいません。

今でも記憶に新しい!女子レスリングの活躍は実によく目立っていた

夏季大会の格闘技で、柔道の他にレスリングがあります。レスリングは最初は男子のみの競技になっていました。ですから古い時代をさかのぼりますと、1924年パリ大会で、内藤克俊さんが日本人のレスリング大会初代メダリストです。

ちなみに取ったメダルは銅メダルでした。金メダルに輝いた初の日本人は、1956年メルボルン大会の池田三男さんでした。その後もレスリング男子のメダルラッシュは続きます。

特に1976年モントリオール大会、1984年ロサンゼルス大会では沢山の日本人男子がレスリングで金、銀、銅を取っています。

レスリングは男子だけの競技とイメージされがちでしたが、2004年アテネ大会より女子も正式種目として扱われるようになりました。

この頃から女子レスリングも男子に引けを取らない強さを発揮し、多くのメダリストが誕生しました。

特に女子レスリングで目立っていたのは、伊調千春さん、伊調馨さん、吉田沙保里さん、浜口京子さんの4人です。この4人の皆さん、2004年アテネ大会、2008年ロンドン大会では連続してメダルを取っている超実力者たちです。

特に伊調さん姉妹は揃ってオリンピックに出て、2人ともメダルを取るなんてなかなか出来ることではありません。それに2人とも同じ大学(志学館)を卒業しています。

姉妹だと何かと比べられることが多いのですが、でも伊調さんはそんなことは全然気にしてなかったかのように見えました。志学館大学は、レスリングに力を入れており、伊調さん姉妹、吉田さんをオリンピックに送りだしている素晴らしい大学です。

浜口京子さんは、父が元プロレスラーのアニマル浜口さんの娘で、最初は父の影響もあってか、女子プロレスラーを目指していました。ですが父の経営するレスリング教室でトレーニングを積んでいくうちに、中学時代にレスリングを始めるようになりました。

彼女は力を付けて行きながら、全日本選手権、世界選手権に出場して見事に優勝し、2004年アテネ大会に参加することが出来、初出場ながらも、銅メダルを取りました。2008年北京大会でも引き続き銅メダルを獲得した実力者です。

吉田沙保里さんも、伊調さん姉妹と同じ志學館大学の卒業者であり、父は元レスリング選手の吉田栄勝さんです。栄勝さんは2012年ロンドン大会で、女子レスリングのコーチを担当していました。

いくら沙保里さんが娘であっても、オリンピックの選手に選ばれたからには、親子関係じゃなく、選手とコーチの間がらになっていたんでしょうね。

吉田さんはアテネ大会、北京大会、ロンドン大会の3回連続で金メダルを獲得した功績が大いに評価されて、「国民栄誉賞」を受賞しました。2012年リオデジャネイロ大会では、惜しくも金メダルを逃しましたが、2020年の東京大会を目指して、現役を続けています。

吉田さんは、現役をする傍ら女子レスリングのコーチもしています。

伊調さん姉妹の現在はどうかといいますと、姉の千春さんはすでに引退をして、生まれ故郷の青森の高校で保健体育の先生をしています。

妹の馨さんも吉田さんと同じく「国民栄誉賞」を受賞し、現役を続けています。

本当に女子レスリングは、注目を浴びる選手たちばかりで盛り上がりました。伊調さん姉妹、吉田さん、浜口さんの後輩にあたる選手の人達も2016年リオデジャネイロ大会で見事に金メダルを獲得しています。

今後も女子レスリングの選手たちの活躍が気になる所です。今度の2020年東京大会ではどんな活躍を見せてくれるのか、楽しみです。

体操競技で活躍した内村航平さん!いつオリンピックに初登場?

水泳競技、柔道に続き、体操競技も夏季大会にはなくてはならない種目の1つです。1976年のモントリオール大会で、コマネチ選手が10点満点の得点を取ったことは今や伝説となり、この選手と同等の点を取った選手は今だに1人もいません。

しかし満点取れなくても、活躍している人達は沢山います。今や若手体操選手として注目を浴びている内村航平さん。彼もまたオリンピックで金メダルを取っている1人です。

内村航平さんは、どんな形で体操を始めたのでしょうか?

内村さんは1989年(昭和64年)1月3日、福岡県で生まれました。何と!昭和が終わるギリギリに彼は生まれたんですね。てっきり平成生まれなのかと思っていました。

内村さんの両親は、元々体操選手であり、父は高校総体の体操大会で優勝、母も体操選手、妹までもが体操選手と家族4人とも体操選手だったのです。

両親が体操クラブを設立した時、内村さんはまだ3歳でしたが、この時から彼は体操を始めました。中学卒業後、先輩となる塚原直也さんを訪ねて自宅を出て、彼は本格的に体操を学び始めました。

しかし内村さんの両親は、彼が家を出ることに反対をしていましたが、結局息子自身が決めたことなので、結局は折れました。

内村さんは幼少時代からトランポリンを使いながら、体操のトレーニングに励んでしました。

食事面では内村さん、意外と好き嫌いが多く、肉が好物で野菜は殆ど食べないことがありました。ですが指導者の教えに従って、野菜を多く食べるようにして、甘いものは極力控えるようになりました。

そんな彼がオリンピックに初出場したのは、2008年の北京大会でした。その時彼はまだ19歳でした。初出場の内村さんが、本番のオリンピックでどんな力を発揮したのでしょうか。

男子体操団体では、初出場の割には落ち着いた演技を見せ、銀メダルを取りました。そして個人戦では安馬の競技で多少のミスはあったものの、これまた銀メダルを取りました。

10代で体操選手が銀メダルを取ったのは、内村さんが初でした。それをきっかけに内村さんは有望な体操選手として、名前が知れ渡り、期待の星となりました。

2008年北京大会に引き続き、2012年ロンドン大会でも内村さんは、出場をします。しかし周囲の期待があまりにも大きすぎたのか、彼は予選の演技中に落ちてしまうミスをしてしまいました。プレッシャーがあったのでしょうね。

個人ではミスがあったものの、団体戦では内村さんはそれを振り切るかの様に安定した演技を披露し、2位に入賞、銀メダルに輝きました。

しかし個人戦でミスしたのが内村さんにとって、大きな痛手となり、団体戦で銀メダルを取れても、嬉しい顔は見られませんでした。

ロンドン大会後、内村さんは結婚をし、2人の女の子を授かりました。2児のパパとなってからも内村さんの体操の活躍は続きました。

そしていよいよ内村さんに頂点に達するときが来ました!2016年リオデジャネイロ大会です。彼は北京大会、ロンドン大会以上に力を発揮することに成功し、個人、団体共に念願の金メダルを取ることが出来たのです!

全ての競技種目の演技は完璧であり、内村さんの今までの体操人生の中で最も素晴らしい結果を出せたのです。

私は19歳で初出場した時から内村さんを応援してきました。何だかとっても笑顔の可愛い男性って印象でした。

ですが内村さんもやはりスポーツ選手の1人です。いつでも何処でも演技が完璧というわけではありません。

2018年3月のワールドカップ大会には出場したのですが、足首の怪我で思うような結果が出せず、苦悩しています。是非乗り越えて頑張ってほしいです。

水泳競技のプリンス!北島康介さんの活躍は今までの努力の賜物だ

水泳競技で活躍した選手は多くいますが、特に北島康介さんは目だって素晴らしいものがありました。そんな水泳競技のプリンス、北島康介さんのご紹介です。

北島康介さんは1982年(昭和57年)9月22日、東京都荒川区で生まれました。実家は焼肉屋を経営していました。

北島さんは5歳の時から水泳を始め、スイミングスクールに通っていました。中学時代、水泳の才能を認められて高校3年生の時、2000年のシドニー大会に初出場します。

初出場にしては100メートル平泳ぎで日本新記録を更新、4位に入るなどの好成績を残しました。10代の時から、北島さんは本当に水泳に関しては勝てる要素があったことが分かります。

そして4年後の2004年アテネ大会で、北島さんの活躍ぶりが目立ってきました。彼の底知れない力を発揮して、100メートル平泳ぎで優勝し、念願の金メダルを取ることが出来ました。

この時の北島さんのインタビューの言葉が印象的でした。「チョー気持ちいい!」彼の感激ぶりがテレビからよく伝わり、日本中が喜びに満ち溢れていました。

この「チョー気持ちいい」は世間の間で流行になり、誰もがこの北島さんの言葉を使うようになりました。当時としては笑えました。

4年後の2008年北京大会にも北島さんは、水泳競技に出場します。もうこの時期の彼は本当に水泳競技のプリンスと言ってもいいくらいで、北京大会ではまさしくその通りになったと言えます。

彼は100メートル平泳ぎで金、そして200メートル平泳ぎでも金に輝き、まさしくW金受賞で、水泳競技のプリンスは2大会連続の栄冠を勝ち取りました。

北島さんはアテネ大会とはまた違った感激ぶりで、W金の受賞にすっかり涙ぐんでいました。世界の頂点に立つことがどれだけ大変なことか、彼は教えてくれたのです。

オリンピックの選手として、選ばれるだけでも大変なことなのに、北島さんは常に世界の頂点を目指していかに努力していたかが分かります。

中学時代に水泳の才能を見出されることがなければ、あの時の北島さんはなかったかもしれません。でも彼は幼い頃から水泳を続けてきたことで、どんな苦しいことも乗り越えてこられたのでしょう。

2012年ロンドン大会、北島さんは3回連続のオリンピック出場となりました。前回のW金受賞が大きな結果を残したことで、ロンドン大会でも大きな期待を寄せされた北島さん。

ですが平泳ぎでは前回の様にいかず、100メートルでは5位、200メートルでは4位と後もう少しの所でメダルには届きませんでした。

ですが400メートルメドレーリレーで銀メダルを獲得することが出来ました。個人戦では思うように力は出なかったものの、メドレーリレーでは仲間の力もあって、銀で入賞出来、北島さんにとっては価値ある銀だったとも言えます。

しかし2016年(平成28年)4月のリオデジャネイロ大会に向けての出場権をかけた試合では、北島さんは思うような結果が出せず、オリンピック出場にはなれませんでした。

リオデジャネイロ大会に参加出来なかったのをきっかけに、北島さんは現役引退を表明しました。北島さんにはまだまだ現役バリバリの水泳競技のプリンスでいてほしかったです。

引退後北島さんは、水泳競技の解説者として姿を見ることがあります。でもやっぱり北島康介さんは、今でも水泳競技のプリンスですよ!これからも多方面で頑張ってほしいです。

柔ちゃんこと谷亮子さん!メダル2連覇は後輩に大きな影響を与えた

女子柔道界と言えば、柔ちゃんが一番有名ですね!本名谷亮子さん。結婚前は田村亮子さんとして、オリンピックで活躍していました。

柔ちゃんの愛称は漫画の題名ですが、でも彼女にピッタリですね。そもそも柔ちゃんが柔道を始めたきっかけは、兄が習っていたからです。

柔ちゃんが小学校2年生の時、兄の通う柔道教室に入部したのです。ですが子供時代の柔ちゃん、柔道を始めたのが影響したのか、実際に同級生の男の子を投げ飛ばしてしまい、運悪く怪我をさせてしまいました。

小学生の割には結構力があったんですね。それからの柔ちゃん、小学生対象の柔道大会に参加して優勝を果たしました。

1991年(平成3年)4月柔ちゃんは、柔道に特に力を入れている高校に進学しました。そこで彼女は本格的にオリンピック出場に向けて、猛特訓を始めます。

その間世界選手権では、見事に優勝をしました。

翌年5月、体重別決勝戦に出場し、順調に勝ち進んでとうとうバルセロナ大会への出場権を握ることが出来ました。柔ちゃんのオリンピック初出場です。

バルセロナ大会でも彼女は、プレッシャーに負けることなく、柔道大会に参加しました。しかし途中脱臼などの怪我に見舞われ、優勝戦では惜しくも2位、銀メダルでした。

当時柔道競技会で16歳だった柔ちゃんは、最年少メダリストになりました。まだ10代の柔ちゃんは今度は4年後に金メダルが取れるように賭けました。

ですが4年後のアトランタ大会に柔ちゃんは連続出場するも、またもや銀メダルで、金には届きませんでした。2度の銀メダルで柔ちゃんは「次こそ金を!」と意気込んでいました。

そしてついに2000年(平成12年)シドニー大会で、柔ちゃんは努力が実って、念願の金メダルに輝きました。「やっと取れた金メダル!」彼女の感激ぶりは相当なものでした。

彼女の故郷福岡県では、その功績をたたえて「国民栄誉賞」を柔ちゃんに贈りました。プライベートでは柔ちゃんは、2003年(平成15年)12月プロ野球・オリックスの谷佳知さんと結婚、2人の男の子を設けました。

翌年2004年(平成16年)のアテネ大会にも柔ちゃんは選ばれ、優勝戦では背負い投げで相手の選手を負かし、2回連続の金メダルに輝くことが出来ました。その頃夫の谷佳知さんもアテネ大会の野球大会に参加し、銅メダルを獲得し、夫婦そろっての嬉しいメダリストになることが出来ました。

長男出産後も柔道を続ける柔ちゃんでしたが、2008年(平成20年)北京オリンピックでは力及ばず銅メダルで終わってしまいました。

それ以後は柔道界に姿を現すことがなくなった柔ちゃんですが、彼女の今までの頑張ってきた姿を見て、後輩たちが柔ちゃんの様に強くなりたいと練習に励む姿を見掛けるようになりました。

日本女子柔道界は、柔ちゃんの活躍をさかえに、どんどん新しい選手の名前が挙がるようになり、後に有名なメダリスト誕生になっていきました。

これは本当に柔ちゃんの過去の活躍ぶりが、後輩たちにいい影響を与えた証拠でもあります。

突然の怪我を乗り越えて!山下泰弘さんのメダル獲得は感動的だった

夏季大会で、水泳競技の他に結構盛り上がりを見せてくれるのが柔道です。柔道は元々日本で生まれたスポーツであり、今日本だけでなく、海外でも柔道が盛んに行われるようになりました。

柔道は時には警察学校でも取り入れることがあり、身を守るための格闘技となっています。子供の柔道教室もあるくらいですから、日本古来のスポーツはすたることがありません。

そんな柔道に情熱を燃やした選手がいました。それは山下泰弘さん。山下さんは小さい頃から柔道が好きで、将来はオリンピックに出る夢を持っていた少年でした。その山下さんをご紹介します。

山下泰弘さんは、1957年(昭和32年)6月1日熊本県で生まれました。幼少時代から目立って体が大きく、腕白な子供だったので家族を結構困らせていました。そんな山下さんの体の大きさを活かして柔道を教えたのが祖父です。

山下さんは小学校3年生で柔道を習い始め、6年生の時に県内の柔道大会で優勝をしました。その後高校進学を経て、インターハイに出場を決める山下さんでしたが、なかなか優勝への道は厳しいものがありました。

山下さんは子供の頃からの夢、オリンピックへの出場をかけて予選大会に参加していましたが、ここでもなかなか壁が熱く、夢を実現させることは出来ませんでした。

1980年(昭和55年)4月、山下さんは大学院へ進学しました。ここへきてやっとオリンピックの出場権を握ることが出来ました。それがモスクワ大会です。ですが当時日本のオリンピック不参加問題が持ち上がり、残念なことに山下さんは夢にまで見たモスクワ大会への出場が出来なくなり、涙をのむ羽目になってしまいました。

この時の山下さんの気持ちを思うと、本当にやりきれなかったでしょう。折角モスクワ大会では名簿に山下さんの名前が入っていたのに、不参加が持ち上がったことで残念無念でした。

そしてとうとう!1984年(昭和59年)ロサンゼルス大会に山下さんは、出場しました!晴れの舞台で世界中の選手と何処まで戦えるのか?山下さんはモスクワ大会で参加出来なかった無念さを晴らすために、優勝目指して頑張りました。

そして2回戦に挑んだとき、不運にも山下さんは右ふきらはぎの肉離れの怪我をしてしまいました。相手の選手に怪我をしたことが分からないように、山下さんは2回戦3回戦と何とか勝ち進みました。

そして優勝決定戦では、ひたすら痛みに耐え続け、相手の選手を床にねじ伏せて力を振り絞る山下さん。一本ブザーが鳴った瞬間、山下さんの優勝が決まり、金メダル確定!あの優勝が決まった瞬間の山下さんの涙ながらの笑顔は今でもはっきり記憶しています。

肉離れの怪我をしながらも、諦めることなく競技に挑んだ山下さんのスポーツ精神は相当なものです。

テレビを見ていて、何だか自分のことの様に涙しました。あの時の山下さん、とっても輝いていました。

1984年ロサンゼルス大会終了後、今までの功績が認められて、山下さんは「国民栄誉賞」を受賞されました。

現役引退後も山下さんは、柔道界で色んな活躍をされています。柔道のコーチは勿論、2017年(平成29年)にはJOC常務理事を担当しています。

本当に山あり谷ありの多かった山下泰弘さん。笑顔にはとても温かさを感じる人です。これからも後輩たちのよきお手本であってほしいです。

夏季水泳競技!歴代最年少の男女金メダリストはこの2人である!

夏季大会の見ものは何といっても、水泳競技です。夏の暑い時期に、テレビで水泳競技を見るのは何とも涼しさを感じるようで、実にいいものです。

水泳はクロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライなど色々あります。やはりクロールが水泳の中心種目でしょうか、水泳教室なんかでも初心者はまずクロールを学びます。

日本人選手も水泳競技では多くの選手が活躍をし、メダルを獲得しています。ところで、歴史を刻んできたこの水泳競技ですが、最年少で金メダルに輝いた選手、一体誰なのか皆さん、ご存知でしょうか?

男性では1932年(昭和7年)ロサンゼルス大会に出場した北村久寿雄さん、そして女性では1992年(平成4年)バルセロナ大会に出場した岩崎恭子さんです。岩崎さんについては記憶にある方も大勢いらっしゃると思います。

お二人とも、14歳・中学生にして金メダルを獲得した最年少選手でした。

ではまず歴代最年少男子の北村久寿雄さんからご紹介しましょう。北村久寿雄さんは、1917年10月9日、高知県で生まれました。

幼い頃から水泳を学び、何と坂本龍馬が泳いだ川で練習をしていました。昔はプールで泳ぐことが出来ませんでしたから、川で水泳の練習をすることは珍しくはありませんでした。

その練習の甲斐あって、1932年ロサンゼルス大会に北村さんは水泳競技に出場し、1500メートルの自由型で今までの記録を更新、わずか14歳にして優勝し、金メダルに輝きました。

日本人男子選手として、歴代最年少の金メダリストに北村さんの名前が挙がりました。その後北村さんは、高校へ進学して、水泳の世界から姿を消しました。

しかし1936年(昭和11年)北村さんの生まれ故郷高知県では、北村さんのオリンピック金メダル受賞を記念して、県内初のプールが建設されました。例え水泳競技を辞めても、北村さんは水泳指導をされたり、色んな水泳大会の監督や理事などをされて活躍されていました。

そして1996年(平成8年)6月、享年78才でお亡くなりになりました。

ここからは歴代最年少女子で金メダリストの岩崎恭子さんをご紹介しましょう。岩崎恭子さんは、1978年(昭和53年)7月21日静岡県で生まれました。水泳を始めたきっかけは、姉であり、いつも姉を目標として岩崎さんは日々練習に励んでいました。

1992年バルセロナ大会で、まだ中学生だった岩崎さんは無名のオリンピック選手として、出場しました。水泳競技ではすでに有力な日本人選手の名前が挙がっていて、岩崎さんの名前は挙がることはありませんでした。

ですが平泳ぎ200メートルで、岩崎さんは見事に優勝を果たし、金メダルを取りました。女性の金メダル獲得は、「前畑ガンバレ!」で有名になった前畑秀子さんに続く2人目でした。

でも岩崎さんの平泳ぎの中継の時も、実況アナウンサーの興奮ぶりが忘れられません。「よし!いけいけ!」と応援に力が入り、岩崎さんが優勝した時にアナウンサーは「やった~!!」と歓喜の声をあげていました。

中学生の14歳の普通の女の子が、オリンピックの晴れの舞台で金メダルを取ったことで、岩崎さんはうなぎ登りの様に一躍有名になりました。

そして競技後のインタビューで、岩崎さんは感激のあまりに「今までの中で一番幸せです。」と答えていました。

現在は水泳インストラクターとして、活躍中で結婚もされて「斉藤」性になりました。長女を設けますが、子育て中にも関わらず水泳指導者として頑張っています。

北村さんと岩崎さん、共に14歳の最年少金メダル獲得は、これからも歴史の1ページとして刻まれ続けていくことでしょう。

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