オリンピックは時代と共に、様々な有望選手を送りだし、競技をすることで感動や悔しさを我々にも伝えてくれました。

4年に1回のこのスポーツの祭典、実は1度だけ日本が不参加になってしまったという、残念な記録があるのです。

それは1980年(昭和55年)のモスクワ大会でした。ちゃんとオリンピック選手も決まっておきながら、例のないモスクワ大会の不参加。一体日本に何が起きたというのでしょうか?

まずモスクワ大会が決まった経緯についてですが、1972年(昭和47年)10月、オーストリアのクイーンにて国際オリンピック委員会の投票にて決定しました。

1980年(昭和55年)1月、当時のカーター大統領が、ソ連との冷戦関係にあったため、モスクワ大会へは参加しないことを表明しました。要するにアメリカとソ連は国同士仲が良かったわけではありません。

だからといって戦争は起こしてはいませんでした。関係の冷え切った所にアメリカ政府は選手を送り込む気などなく、不参加というよりは寧ろボイコットを決めたのです。

モスクワ大会が行われた当時のソ連は、多くの国と対立関係にあり、特に中国やイラン、サウジアラビアなどもすでにボイコット表明を出していました。

あれよあれよとボイコットの国続出で、日本までもが不参加、ボイコットせざるを得なくなりました。

つまりカーター大統領がボイコットをしたために、日本政府もそれに従わなくてはならなくなったのです。

日本は太平洋戦争で、完全にアメリカに敗北し、戦後は同盟国となりました。ですから結局はアメリカの支配下にある日本なので、逆らえないのでしょう。

日本政府がモスクワ大会に完全に不参加を決定したのは、1980年5月のことでした。その前の4月に、モスクワ大会に選手として正式任命された人達が「何とか参加を認めて欲しい。」と申し出がありましたが、それは叶うことがありませんでした。

この時、選手として選ばれた人達は本当に悔しい、残念、無念しかなかったことでしょう。

オリンピックの出場権を勝ち取るだけでも、凄く大変なことなのに、モスクワ大会では全員が不参加の結果となり、涙をのみました。

結局はソ連とアメリカの関係が、当時芳しくない理由から、日本までもが不参加・ボイコットの犠牲になってしまった、としかいいようがありません。

モスクワ大会に参加するはずだった選手のメンバーとして、マラソンは瀬古利彦さん、双子の兄弟の宗茂さん、宗猛さん、柔道には山下泰裕さんの名前もありました。

まだ若き彼らは本当にモスクワ大会を目指して、トレーニングを積んでいたのです。折角の努力がモスクワ不参加決定で、全てが水の泡になってしまいました。

特にマラソンの瀬古さんや宗兄弟は、この時代は共にいいライバルとして、国際マラソンに出場していました。この3人がマラソンに出るたびに、テレビを見ていました。

ですからモスクワ大会で、彼ら3人が晴れのオリンピックの舞台でまた走る姿を見ることを楽しみにしていたのですが、不参加決定でとても残念でした。

でも私達以上に残念だったのは、参加するはずだった瀬古さんをはじめとする選手の皆さんです。本当に今まで何のために頑張ってきたのか、ここまでの険しい道のりを超えてきたのに、ここへ来て何故…と皆さん相当悔しい思いをされていたことでしょう。

本当に忘れることの出来ない、残念な不参加結果でした。